8月6日
2008-08-06


嫌な日ですね。 一句作る気持ちになりません。

原爆の使用に関して、絶対に賛成する人は居ません。たとえアメリカ人であろうとも。

只、一番人命が失われない方法となると諸説出てくるのも事実です。

この事を避けて終戦の日を迎えるのは、亡くなられた方に対し無責任だと思いますが如何でしょうか。


この事を考える前に歴史をさかのぼる必要が有ります。

それは「宣戦布告」です。

「宣戦布告」とは「これから戦争しますよ」という意思表示です。

戦争です、国民と国民との殺し合いを言い渡した訳です。理由はいろいろ有るでしょう。
ABC包囲網による経済的圧迫とその対抗処置が主たる原因のようですが、他にも沢山有るでしょう。
此処から、開戦の良否を論ずるのは無意味です。

いかなる理由があろうとも、数百万の人命を無視するなんて許される事では有りません。

まして、民間人を攻撃するなんてもってのほか!。



では何故、各地への大空襲、広島、長崎への原爆投下となったのか。

「死して虜囚の辱めを受けず」(死んでも捕虜になるな)

この言葉が広島、長崎に原爆を落としたような気がしてならないんです。



私の叔父も靖国神社にいます。

母は幼い頃に両親をなくしました。戦死した叔父と二人兄弟です。
幸い、母を預かってくれた祖母の実家が母を大事に育ててくれました。
私の「大切な田舎」です。

話がそれましたが、そんな大切な叔父が、「死して虜囚の辱めを受けず」と言った人と一緒に靖国神社にいるのは理解出来ません。



「死して虜囚の辱めを受けず」
この言葉のため、サイパン、グアム、沖縄で沢山の民間人が死にました。
米軍の攻撃に依って死んだ訳では有りません。
自ら、或いは・・・・・。

その為、米軍は軍人と民間人の区別が出来なかった。

戦争とはそういうものだと父から教わりました。

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